仇討ち物語

1/5ページ

 一等地に立つ豪華なマンションの最上階を自宅とするこの部屋の主は、寝起きの機嫌が史上最悪である事で有名だ。だから事務所で昼寝などをむさぼっている彼女を見たら、触らぬ神に何とやらで、自分から起きてくるまで放置という暗黙の了解ができていた。
 それなのに、どうして俺が今ここに立っているかだって?俺だって本当なら、こんな地獄の入り口に立ちたくなかったさ。ああ、立ちたくなかったとも。
 だけどさ、仕方ないんだって。ここの住人さんも怖いけど、うちの社長はもっと恐いんだもん。伊達眼鏡の奥の鋭い目で睨まれたら、拒絶の言葉は喉までだって出てきやしない。
 わかってるさ。要は、俺が弱いってだけの話だ。
「・・・・・・・・・よし!」
 ここで足掻いていても、この瞬間にポケットの中のケータイが鳴って訪問する必要がなくなったとか、誰か別の所員が来て俺の代わりに中の人を起こしてくれるとか、そんな上手いこと事態が好転するわけもない(祈れば叶うのならば俺はいつだって天に祈ってやるが)。来てしまった以上、任務を遂行するだけだ。
 俺は意を決して、ドアを叩こうと手を持ち上げ・・・・・・って、ちょ…ッ!
 ガンッ!
 お約束。目の前のドアが急に開いて、見事俺の額を直撃した。
「って〜…」
 派手に鉄製のドアと喧嘩をした額を押さえ、俺は不本意ながら涙した。うぅ…マジで痛い。
「タテイチ。いつまで人の家の前で突っ立っているつもりだ?用があるなら早く入んな」
 激痛に息を詰めていた俺は、少々不機嫌そうな声にがばりと身を起こした。
 そこには、部屋着姿の女性が口の端に煙草を銜えて立っていた。腰までの長い髪には、はっと目を瞠るような見事な深紅のメッシュが入り、長めの前髪の奥に隠れた青磁色の瞳は気だるげに俺を見つめている。
「リュウイさん。珍しいですね、貴女がこんな時間に起きているなんて」
 あまりの驚きに、思わず本音がポロリ。
 心外そうに片眉を上げ、リュウイさんはドアを開け放したまま部屋の奥へと引っ込んでしまった。
 嫌味の一つでも飛んでくるかと覚悟していた俺は、拍子抜けだ。どうやら、目が覚めて結構時間が経っているらしい。それとも、寝てないのかな。
 もし後者だったら…想像の恐ろしさで卒倒しそうになったので、考えることは放棄しよう。
「お邪魔しまーす」
 一応中に声をかけて、意外に綺麗に掃除されている室内へと靴を脱いで上がる。そのまま突き当たりの部屋のドアを開け、中に入った。テーブル近くのカーペットにじかに座る。
「紅茶でいいだろ?」
「あ、すみません」
 十二畳程のリビングと直に繋がっているキッチンへと視線を遣れば、冷蔵庫の中からペットボトルを取り出している処だった。
 ちなみに訊きますが、リュウイさん。俺が嫌ですって言ったら、別のに変えてくれるんですか?・・・・・・・恐ろしい思いをする事はわかりきっているので、口には決して出さないが。
「――それで?タテイチ。何時から?」
 買い置きの紅茶の入ったコップの一つを俺の前に置きもう一つは自分の口に運びながら、お気に入りのソファに腰掛けたリュウイさんは単刀直入にそう訊いてきた。
 まあ、俺がここを訪れる理由なんて一つしかない。この人との付き合いもそろそろ一年になるので、主語も何もかも取っ払った質問には慣れっこだ。
「十五時丁度です。場所は、楠ホームの地下駐車場」
 冷えた紅茶を飲む動きを止め、リュウイさんは不機嫌そうに眉間に皴を寄せる。
「随分と速い時間だな」
 その意見は尤もなので、俺は肩に掛けた鞄の中から書類を取り出し、最初のページに視線を落とした。
「えぇと…何でも、『怨者デス』が四時の飛行機で海外に行っちゃうらしいんです。その前に、執行しておきたいって、社長が…」
 盛大な舌打ちが聞こえた。恐る恐る資料から目を上げて彼女を窺えば、立てた片膝に頬杖をついたその横顔がかなり険しい。
 え〜ん、怖いよ――。帰りたいよ――。
 と、心の中で叫んでも、全く意味はなし。口に出せばいいって?…地獄に堕ちたいと言っているようなもんだ。
「…ゴホン」
 少々…いや、かなり白々しい咳払いをした俺は、気を取り直して(覚悟を決め直して)再び資料に目を通し始めた。
「時間があまりないので、現地直行して下さい。詳しい事は車の中でこの資料を」
 俺は今まで自分が持っていた資料を不機嫌絶頂のリュウイさんに手渡した。資料といっても大したことは書いていない。『怨者』の名前から始まって、生年月日・血液型・出身地・勤め先等々。それが一枚目で、二枚目は『恨者サイヅ』についての情報が載っている。
「…ガロウの馬鹿が。面倒な仕事を引き受けてくれて」
 ぶつぶつと文句を言いながらも仕度を始めるリュウイさん。何だかんだ社長の事言いながら、本当は仲がいいんだから。
 喧嘩するほどって、昔の人はいい事言うねぇ。
 なんて、そんな事口が裂けても言えないけどな。俺、まだ死にたくないし。
「タテイチ」
 おっと。呑気に紅茶なんぞ飲んでいる場合じゃない。リュウイさんはやる気を出すまでに時間がかかるが、エンジンが掛かれば行動は早い。
「今行きます!」
 空になったコップを台所へ置き、既に玄関で靴を履き終わったリュウイさんの許へ走る。
 相変わらず、仕事の時のリュウイさんは真っ黒だ。上から下まで全部黒。唯一色があるのは、長髪に入れられた深紅のメッシュだけだ。
 喪服、なんだそうだ。誰に対しての?…さぁ、それは俺も知らない。『怨者』か『恨者』か、或いはその両方か。
「タテイチ」
 もう一度名前を呼ばれ、急いで靴を履いた俺は外に出る。リュウイさんが部屋の鍵を閉める音を聞きながら、俺は一足先にエレベーターに乗り込んだ。

ΨΨΨΨ


【次へ】/【戻る】