脱出

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「ザイ」
 突然背後から掛けられた呼びかけに、その接近を気配で察していたザイは驚く様子も見せずに振り返る。
「こんな所に…って、その傷はどうしたのです!?」
 恐らく姿の見えない自分を捜しに来たのだろうリシャールの、ザイの両腕に刻まれた複数の裂傷を映した黒の双眸が瞠られた。駆け寄り、断りもなく彼の腕を取る。内出血で青黒い手首に枷がない事と、地面に落ちる金属の欠片にリシャールは眉を寄せた。
「無理矢理枷を壊したのですか?なんて無茶を…」
 ぶつぶつと無茶をしたザイを諌めながら、リシャールは自らの服を躊躇いもなく破り、布の切れを手際よく彼の腕に巻いていく。止血には些か心許無いものではあるが、イシュトラの街に戻るまでの応急処置としては充分だろう。
「しかし、ユヒト殿。私は、感激もしているのです」
「……は?」
 手当ての間休む暇もなく贈られる説教を右から左に全て受け流していたザイは、紡がれた言葉を惰性で聞き流す所だった。
 訝しげな視線を遣れば、何だかもう既に黒の双眸を涙で潤ませているリシャールがいて。
 これはまずい、と思った瞬間だった。
「ユヒト殿!こんな無茶をする程、私達の事を大切に思っていて下さったのですねッ!」
 逃げようと、一歩足を引いたザイであったが、しかし抱き締めてきたリシャールの腕がそれを許さなかった。
「あぁ…私は何と幸福なのでしょう!こんなにも心強い相棒がいて下さるなんて…!我等が守り神で在らせられるヴェーラ様!このリシャール、心より感謝致しますッ!」
 ユヒト殿ぉぉ〜!等と感激にむせび泣く相手を、引き剥がす気力は、ザイには既になかった。相手の感情爆発が収まるまで大人しく待っていた方が得策であると、この数日で学んだ。
 それからしばらくの間森に木霊していたよく分からない感激の声がようやく止んで、リシャールの熱き想いから解放されたザイはようやく洞窟へと戻る事が叶った。
「急いだ方がいいかもしれません。先程、少し離れた所で竜人の姿を見かけました」
 アーサーの報告に、背後の気配が緊張を帯びる。厳しい表情のアーサーに一つ頷いたザイは、三人を自分の近くに呼び寄せた。
 地面に、青白い魔法陣が刻まれる。
「中心から出るなよ。時空の狭間に落とされても俺の責任じゃないからな」
 そう忠告し、ザイは移動魔法を発動させる。
 周囲を満たした閃光が掻き消えてからしばらくして、複数の足音が静寂を乱す。木々の狭間から武装した竜人が数人姿を現すも、そこには既に、人影はなかった。


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