脱出

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 深い森だけあって、そこを流れる川の水は冷たかった。一度顔を洗っただけで眠気が吹き飛ぶ。
 伸びるに任せて目元まで覆う長さになった前髪から滴り落ちる雫はしかし、川の流れを乱すにはあまりにも儚すぎる。
「…切ろうかなぁ」
 絳髪の一房を意味もなくいじりながらそんな一言を洩らしたザイであったが、その真紅の双眸は眠たげでそれがただの思いつきでしかない事を語っている。
 完全に眠気を払うように頭を振る。燃える瞳が瞼の裏に隠れれば、深い森を渡っていた風が止んだ。木々が奏でる梢が消えた世界は、清浄なるせせらぎに満たされる。
 瞳を閉じたザイの周囲が、徐々に彼の発する魔力で満たされていく。密度の濃い魔力に朝陽の満ちる大気は歪み、その見事な絳髪や衣服が翻れば、耳鳴りにも似た悲鳴を空気が上げ始めた。
 発される魔力がその威力を増していくにつれて、ザイの両腕に嵌められた枷が花火を散らす。ザイの魔力と魔封じの枷の魔力とが相互にぶつかり合い、爆ぜる余力が彼の腕や掌を切り裂いた。鮮血が伝い落ちるも、神聖なる水はその穢れすら呑み込んでしまう。
 開かれる、真紅の双眸。
 二つの力の均衡が、崩れる。
 光が弾け、乾いた音を奏でて両手首を拘束していた枷が粉砕された。
「――――ッ!」
 駆け抜けた激痛に、ザイは顔を歪める。
 最大放出の魔力を徐々に抑制していくと、世界は元の秩序を取り戻した。木々と風と水が奏でる森の子守唄に包まれながら、しかしザイの表情は晴れない。
「・・・・・・・・・・」
 魔力のぶつかり合いによって己の両腕に刻まれた裂傷に、ザイは深い溜め息をつく。
「・・・・・・・・痛い」
 呟き、取り敢えず川の中に腕を入れる。当然のように、冷たい水は傷にしみた。
「…なんで俺、こんなに頑張ってんだろう」
 鮮血の流れ行く様を漠然と眺めながら、その唇から再び盛大な溜め息を洩れる。
 この十八年間、やる気とは無縁の生活を送ってきた。趣味は惰眠を貪る事。幸せと感じるのは寝ている時。…だったはず、なのだが。
 再度溜め息をつき、溜め息の数だけ幸せが逃げていくという言い伝えが本当ならばこの数日間で確実に自分は人生の半分の幸福が奪われたな等と下らない事を考えていたザイは、ふと我に返って川の中から腕を出した。

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