天の啼く狭間で


 豪雨の中を走り続けた。水溜りを踏み足に水が飛んだが、傘も差さずに走り続けていて全身ずぶ濡れだったので、今更どうという事はない。
 あれから、一体自分は何分走り続けているのだろう。何処へ向かって走っているのだろう。何もわからなかった。雨の中を行く当てもなく足が向くままにひたすら走る。息が切れる。意識が朦朧とする。止まりたいのに、足は言うことを聞いてくれない。
 思い通りにならない自分の体に混乱していると、突き当たりにぶつかった。そこでようやく足が止まる。震える膝に両手をついて乱れた呼吸を整える。ここ数ヶ月放っておいて長くなった前髪から雫が滴り落ちる。
 呼吸が整ったところで彼は体を起こして自分の足を止めた建物を見上げた。
 それは、赤レンガ造りの建物だった。西洋の城を小さくしたような、住宅地であるこの辺りの風景から完全に浮いている建物だ。かなり古い物のようだったが、鉄柵の向こうに広がる庭は綺麗に手入れされていて、庭一面を埋めている菖蒲が雨に濡れて咲いている風景はまさに風流であった。
「…なんで、この時期に菖蒲が…?」
 呟いた時には既にその建物に向かって歩き始めていた。鉄柵はその重苦しい外見に似合わず手をかけ軽く押すだけで内側に開いた。鍵が掛かっているものだと思っていた彼はその事に驚いたが、長時間雨の中を走ってきた疲れからか、さして不審にも思わずにそのまま鉄柵を通り抜けて庭に入った。砂利が敷き詰められた一本の道が、赤レンガの城へと続いている。
「お邪魔しま―す」
 大きな黒塗りの玄関を開けて中に入る。靴は脱がなくていいらしい。  蝋燭の灯された薄暗い廊下を何も考えずに歩いていく。気の向くままに左へ右へ曲がり、時には階段を上った。そうして辿り着いたのが、今目の前にそびえ立つ白色の観音扉の前。
 彼はそこに立ったまましばらくの間動けなかった。何の穢れも無い無垢な白が、穢れた自分を戒めているかのようだ。開けない方がいい――本能が彼にそう告げる。しかし、それ以上の強い何かが扉の向こうから自分を呼んでいた。抗う事が出来ない。引き戻す力を振り切り、彼は白色の扉に手をかけた。そして、ゆっくりと開ける。
「――やっと来たね、゛神楽"さん」


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