天の啼く狭間で
耳に響いた、少年の声。その姿を捜して室内に視線を滑らせると、彼は右手奥の本棚の前に立っていた。蝋燭だけの室内は廊下同様薄暗く、その顔はよく見えない。
「十二分三十四秒一九。中々に時間がかかったな」
何が面白いのか、少年は手に広げていた本で口元を隠しながらくすくすと笑う。
彼は今頃になって恐怖に駆られた。自分は、もしかしたら来てはいけない所へと迷い込んだのではないか。南窓を背に置かれた机以外の三方を囲む巨大な本棚がより彼の恐怖心に拍車をかける。
「そんなに怖がらないでよ、草薙燈牙さん」
知らない相手から急に名前を呼ばれ、燈牙は驚きに目を見開いた。
「どうして、俺の名前を…」
「それにしても。贅沢な姓ですね、神に準ずるなんて。゛日柳"は『草薙剣』。゛燈牙"は、その剣の鋭さを表しているんでしょうか」
燈牙の言葉を完全に無視し、少年は皮製の椅子に座った。数冊本の置かれた木製の机の上に手に持っていた本を新たに置き、組んだ手の甲に顎を乗せて彼を見据えてきた。
その瞳の鮮やかな深緑の輝きに、燈牙はくっと息を呑む。
「まあ、どうでもいいですけどね。僕には貴方の家の事なんて関係ないし」
呆然と立ち尽くす燈牙から視線を外し、彼はおもむろに左腕を肩の高さまで上げた。何処からともなく翼の羽ばたきが聞こえ、その腕に見事な緋色の羽を持った鳥がとまる。鷹よりも少し大きいだろうか。燈牙がはじめて目にする鳥だった。
「人間をからかうのも大概になさいませ。逃げられては意味がないのですぞ」
「寝言は寝てから言え」
戒めの言葉を刃(やいば)のような冷めた声音で一刀両断されたラウは、ぶるっと身を震わせてから彼の左肩に移った。そのまま大人しく沈黙する。
「ど、どどどどどうして…ッ?鳥が…鳥がしゃべったッ!?」
自分は夢でも見ているのだろうか。だったら早く覚めてくれ。
非日常的な状況に現実逃避しそうになった燈牙の意識を引き戻したのは、澄んだ少年の声だった。
「――燈牙さん。これは僕の式神で名前はラウ。僕のことは…そうですね、ナダと呼んでください」
聞きたいのはそんな事ではない。しかしナダと名乗った少年は、そんな燈牙の心情など無視して話を先に進めてしまう。
開いたままであった本に視線を落とし、ナダは淡々と言葉を紡ぐ。
「日柳燈牙さん。二十八歳。実家は古い神社で、貴方は父親から神主の座を受け継ぐ事になっている。婚約者の名前は、天雲美鈴さん。今年八月に結婚式を執り行う予定、と」
「どうしてそんな事を…」
燈牙の言葉は続かない。
「゛天雲"、ね。『天叢雲剣』――『草薙剣』の別名を苗字に持つ、太古から続く神社の娘さん」
ナダの視線が、再び燈牙に移される。
「―何が不満だったのでしょうね?燈牙さん?」
意味ありげに笑って、ナダは沈黙する。
燈牙は混乱した。何故彼が自分の名前を知っている。何故彼が自分の事について知っている。何故…。浮んでくるのは疑問の言葉ばかりで、しかしそれは音にならない。真っ直ぐに見据えてくる深緑の双眸が怖くてならなかった。
「ちなみに、どうして貴方の事を知っているのかというと、それは企業秘密なんで。悩んだところで解決しませんよ。時間と労力の無駄遣いです」
にっこりと笑いけられて、燈牙はがっくりと肩を落とした。ここでは自分の常識が通用しないらしい。だったら、どんな非常識な事にも驚くまい。驚くだけ損というものだ。ここではそれが当たり前なのだとそう無理矢理納得するしかない。でなければ、こちらが疲れる。
「七分十一秒八六。おぉ、記録更新だ」
ナダが嬉しそうに笑う。燈牙が怪訝そうな顔をすると、ナダは笑みを口元に刻んだまま説明してきた。
「貴方がこの状況に適応するまでの時間。今まで来た゛神楽"さんの中で一番早かったのは二百四十六番の荒井千佳さんの十分二秒三四だったんだけど、貴方はそれよりも二分も早い。ここまで来るのは時間がかかったのに。これだから人間というものは…」
くすくすとナダが笑う。
何が楽しいのか燈牙には理解できない。静かに笑い続けるナダにかける言葉が見つからずに沈黙していると、やがて笑いを収めた本人が燈牙を見据えてきた。
「―――――――ッ!」
正面から射抜いてきた深緑の双眸に燈牙は息を呑む。その輝きがあまりにも綺麗で、そして、残酷だったから。心の奥底まで見透かす、深い瞳。
ナダがおもむろに右手を顔の前にかざした。
その手に握られている物を視界に入れた瞬間、燈牙の黒曜石の瞳がこれ以上ない程に見開かれた。彼の視線が太陽の光を反射して煌くそれに釘付けになる。
「――見覚えがありますよね?燈牙さん」
左手で頬杖をつき、ナダは静かに確認の形で問いかける。燈牙からの返答はない。元からナダの方も期待していない。
「貴方が関山永遠さんにあげた物です。随分と洒落ていますね。僕は嫌いじゃない」
顔の前にかざしたペンダントを眺めやり、ナダはその深緑の双眸を細めた。
燈牙は愕然とした。
何故、あれが彼の手元にあるのだ。あれは、永遠が持っていったはずだ。そうしてくれと、彼女が頼んだ。それなのに―――。
「僕がこれを持っているのが不思議ですか?でも、勘違いしないでくださいね。そうしてくれと、彼女が手渡してくれたんですから」
「何…を…?」
頭が混乱する。永遠が自分で持ってきた?そんなはずはない。だって、永遠は―…。
「―貴方が、殺したんですものね」
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