天の啼く狭間で


「お疲れ、ラキ」
 隣の部屋へと続く扉を開けると、皮製の椅子に座り窓の外を眺めていた主が視線はそのままで声をかけてきた。その右肩には緋色の翼を持った鳥がとまっている。ラキは一礼して主の傍らに立ち、同じように雨の降り続く外を眺めた。
「…本当に、これでよろしかったのですか?」
「知らない。僕はただ頼まれた事をやっただけ。いいか悪いかなんて、僕は知らない」
 頬杖をついて外を眺める主の横顔に表情はない。
「ペンダントを、差し上げてしまいましたが…」
「別にいいんじゃない?返す人はもういないんだからさ」
 主の声音は淡々としている。事実を告げるだけ。
「確実に関山永遠さんの記憶は消しましたのに。人間の想いというものは、強いものですね」
「だから怖い。愛情が憎悪に変われば、簡単に人一人殺せる力になる」
 ラキは溜め息をつく。
「…もし燈牙さんが美鈴さんではなく永遠さんを選んでいたとしても、きっと幸福な結果となっていたのでしょうね」
「例え両親のしがらみから解放されても、その後二人が幸せになれるという保障はどこにもない。大切なのは、その後なんだよ」
 何事にも無関心を装いながら、物事の中心を捉えている。
 ラキにはわからない。主という人物が。だが、嫌いではない。
「それにしても、人間は本当に不器用な生き物だ。初めから言葉にしていれば、こんな事にはならなかったのにね。羞恥心が生んだ結果だよ」
 主の言葉に、ラキは眉をひそめる。
「どういう事です?」
「ペンダントの柄。覚えてる?」
「゛胡蝶蘭"でした」
「そ。゛胡蝶蘭"の花言葉は、『貴女を愛しています』。で、そのお返しとして彼女が返した花は、゛ダリア"。ダリアの花言葉は『不安』だけど、黄色に限っては違う意味になるんだ」
「違う意味、ですか?」
「――『あふれる喜び』」
 ラキは紫の瞳を見開く。
「それでは、彼女は彼の想いに応えていたのですか?先が不安だと伝えたかったのではなく、想いが嬉しかったのだと」
「そういう事になるね」
 彼女は彼を裏切ってはいなかった。彼の想いが嬉しかったのだと。これから共に生きていこうと、そう返したつもりだったのに。彼は、黄色のダリアの花言葉を知らなかった。
「では、何故教えて差し上げなかったのです」
 前言撤回。ラキの口調に険が宿る。主の右肩にとまっていた鳥が微かに羽ばたいた。
 しかし、主は常に冷静だった。初めて彼の深緑の双眸がラキを捉える。
「その行為に何か意味があると?」
「意味が…って」
 主の宿す冷淡な輝きにラキは言葉を詰まらせる。
 主の視線が再び外に移された。
「―゛覆水、盆に返らず"。どんなに後悔したって失った水は戻らないのだから、失くした事を悔やむより、新しい水を探したほうがよっぽど意味があるよ」
 主は何処までも淡々としている。言葉が届かない。彼がつかめない。
「しかし、人間はそれ程強くありません」
「うん。だから、忘却っていう方法があるわけでしょ。現実を生きる為の、最終手段がさ」
 人間は簡単に傷付く。その傷はすぐに癒える事はない。だから、人は忘れる。その傷の痛みを。存在すらも。――生きていく為に。
「忘却、ですか。いつか、思い出す日がくるのでしょうか」
「消去じゃないからね」
 彼は否定も肯定もしなかった。
「その時、彼はどうするのでしょう」
「さあね」
 主の返答は短い。
「…貴方は冷たい」
 今まで沈黙を守っていたラウが口を開いた。
「兄さん。それは…」
 ラキの言葉を主の澄んだ声音が遮った。
「――僕は彼じゃない。蕾が開き、その花が美しいか否かは彼が決める事だ。僕は誰の未来も担わない」
 優しいのか冷酷なのか、判断しかねる。
「先が見えないから人生は楽しいんじゃないか。結果の分かっているゲームなんて誰もしないよ」
 主の言葉に兄弟は複雑な表情をする。
 しばし沈黙し、ラウが吐き捨てるように呟いた。
「…好んで人間と関わろうとする貴方の神経がわかりませぬ」
 主が軽く声を立てて笑う。
「面白いからだよ。――人間は本当に面白い」
 彼の視線は外から外れない。雨の降り続くそこに、その深緑の双眸が何を見ているのか、兄弟にはわからない。
「見ていて飽きないんだ。失敗と反省。そしてまた同じ失敗をする。その繰り返し」
 主の言葉が朗々と響き渡る。その声は美しかった。
「過ち・後悔・そして同じ過ち。それはワルツ。未来永劫続く感情の連鎖。――こんな面白い見世物は他にないね」
 掴み所がない。何処までもこの人は真意を見せない。
「あぁ、ほら。また天が啼いた。今度はどんな足掻きを見せてくれるのかな。楽しみだね」
 くすくすと主は笑う。
 天が啼く。主が゛かぐ"と呼ぶ人間の魂を迎えにいかなければ。
 ラウが緋色の翼を広げて雨の中へ飛び立っていく。ラキが隣の部屋へ続く扉の向こうに消える。

「―――人間は愚かだ。だからこそ、美しい」

 主の呟きを、二人は知らない。




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