黄昏時の神風

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 肌を刺すような日差しは実を潜め、顔を撫でる風が湿気を含んだ夏のものから爽やかな秋のものへと変わった。
 季節は、確実に動いていた。自分の世界から色が消えたあの夏の日が、もうこんあにも遠い。大切なものを失って、この胸にあいた穴は、まだ塞がっていなかった。何をしていても、視界の隅に彼の姿を捜している自分がいる。
 凪紗は、誰も来ない放課後の屋上で一人空を見上げていた。雲ひとつない空の色は、もう冬に近づいていることを暗に告げている。
「…拓也。どうして、傍にいないの…?」
 何度も繰り返された問い。呟きは風に消え、沈黙が返されるはずだった。
「―――いるよ、そこに」
 突然かけられた言葉に驚いて振り返ったそこには、見たことのない男子生徒が立っていた。肩までの髪は風に揺れ、幼さの残る顔に悲しげな表情を浮かべている。着ている制服は確かにこの学校のもので、ネクタイの色から判断して三年生だ。
「ずっと、君を見てる。淋しそうな顔をして」
 その視線が凪紗からはずされて、何もいない空間を見つめる。まるでそこに何かがいるかのように細められた瞳は、漆黒だった。
 凪紗は、まるで金縛りにあったかのように動けなかった。ただ黙って、自分から少し離れた所に立っている彼を見つめることしか出来ない。その漆黒の瞳に、吸い込まれそうな錯覚を覚えた。
「…ずっと、ここに来ているね、君は。何をするわけじゃない。ただじっと空を見上げてる。悲しそうな顔をして。それは、どうして?」
 再び彼の視線が凪紗を捉える。
 男子生徒の問いかけに、逆らえない自分がいた。無意識のうちに言葉が口をついている。
「…飛べないかなって、思って」
 怪訝そうな顔で、彼は見つめ返してくる。
 凪紗は、やっと体の自由を取り戻した。彼の曇りのない漆黒の瞳から逃れるように、フェンスに身を預けて空を見上げる。
「この空を越えて、拓也のいるところに行けないかなって思ってた。そんなの、無理なのにね。私には、この空を飛ぶ為の翼がないんだもの」
「―それをわかっていても、君は望まずにはいられないんだね」
 名前も知らない、たった今出会った男子生徒は、凪紗の隣まで歩いてきて同じようにフェンスに自分の体を預けた。しかしその瞳は空には向けられない。ただ真っ直ぐに、凪紗を見つめてくる。
 しばしの沈黙がおりる。音をなくした屋上を、山の背に沈んでいく夕陽が橙色に染め上げた。
「…恋人が、夏に死んだの。突然の交通事故だった。ハンドル操作を誤って歩道に突っ込んできた車に撥ねられて、そのまま…。まるで、漫画の中のような話よね」
「―でも、本当の事でしょ?」
 悲しみを紛らわせようと無理に笑った凪紗に、しかし彼は哀しげな表情のままで問いかける。
 本当の、と。凪紗は口の中で呟いてみる。
 現実の事だった。漫画の中でしか有り得ないだろうと思っていた事が、確かに自分の身に起こったのだ。
 駆け抜けた衝動。真っ暗になった視界。壊れる程に痛む心。
 それらは決して、虚像のものではなかった。漫画のように作られたものではなかった。


 だって彼は、もうここにはいない。


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