太陽と月の奏でる場所で
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生暖かい風が体に纏わり付く。暗い紫に覆われた空間に満ちる慣れ親しんだ気配。満足と無念。絶望と安堵。諦観と固執。相反する、死者の抱く想い。
対岸を臨めぬ程に広大な冥府の川の中央に造られた、彼岸と此岸を分かつ扉。どれ程広大に見える川でも、死者が通る為の道はここだけだ。死者が迷う事無く対岸へと辿り着く為。亡者が向こう側へと渡らぬ為。この門以外の道へ一歩でも足を踏み入れれば、その魂は永遠に狭間の世界を彷徨う事になる。
常にその扉が開かれたままである門の上に腰掛け、抱えた片膝に顔を埋めるようにして眠っていた彼は、ふと傍らに顕現した気配に瞳を開けた。
「さすがのお前も、過去を遡るには些か骨が折れたらしいな」
笑みを含んだ声音に、しかし彼は応えない。
「あの雑踏に紛れ込み、娘の服を掴んでほんの僅か立ち位置をずらした。その結果、娘は軽傷で済んだ。これならば、確かに代償を払う必要はないな。魂は冥府の川を渡らないのだから」
淡々と、傍らに立つ長身の相手は語る。
彼は顔を伏せ、沈黙を守るだけ。
「冥府の門の番人は常に公平でなければならない。だが、お前の行為はその理に背くもの。その代償が、それだ」
長身の影の金色の瞳が、彼の微かに震える右腕へと落とされる。錆びた鎖に囚われたその腕から滴り墜ちる赤い血が、冥府の川へと墜ちていく。
それは咎。公平であるべき彼が、その理を冒して一人の娘の時間に干渉した。それは赦されぬ事。不慮の事故もまた運命。彼の役目は冥府の門の番人。傍観という名の公平さ。
「下らぬ感情など捨ててしまえ」
冷徹に吐き捨てた影の言葉に、彼は初めて顔を上げた。深緑の瞳と金色の瞳とが真っ向からぶつかり合う。
「さもなくば、いずれその命、この川の雫へと堕ちる。その血のように」
残酷な宣告に、それでも彼は何も言わない。ただ、いつもは無表情のその顔に、穏やかな微笑を浮かべるだけで。
「…お前の人間好きは、理解出来ぬな」
諦めたように溜め息をつき、長身の影は現れた時と同様唐突に姿を消した。
立てた片膝に再び顔を伏せ、彼は己の右腕から流れ墜ちてゆく赤い雫の音を聴く。それは命の欠片。戒めの鎖は、彼に与えられた悠久の時を削ってゆく。
「…代償なくして、得られるものなど何もない」
彼の呟きを聴くものは、一人としていない。
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