脱出

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「まず必須条件として、術者がその場所を訪れたことがある事が挙げられます。これは、魔術が術者の五感全てを発動媒体としている為と考えられています。どのような街並みなのか。どんな人々が暮らしているのか。その場所の気候や風土、その他諸々の情報全てが魔術の発動媒体となるのです」
 説明を続けながら動いていた右手が止まれば、アーロンとリシャールは彼の手元を覗き込むように身を乗り出す。
「移動魔法を例に取るならば、まず頂点に来るのが方位です」
 地面に描かれた魔法陣の頂点を持っていた小枝で指し示し、釣られるように二人の瞳をその動きを追う。
「イシュトラの町はここから北の方角。ならばここに、古代アドバ語で北を意味する『キスト』という文字を刻みます」
 細い木の枝の先の地面には何やら文字らしきものが記されているが、教養のあるリシャールならともかく、アーロンにその判別が出来るはずもなかった。
 納得するリシャールの隣で一人眉間に皴を刻むアーロンに構わず、アーサーは話を進めてしまう。
「次に必要なのは、大雑把な経緯と緯度。それを左右どちらにするかは厳格な決まりはありません。ですが、経緯を左。緯度を右に印すのが一般的なようです」
 その説明の通りに輪の中心の左右には範囲を用いてそれぞれ別々の数字が刻まれていた。
「最後に、詠唱の具現化です」
 方位を印した頂点とは対極を成す下方に刻まれた文字はやはり自分達が今使用しているものとは大きく異なっていて、知識の少ないアーロンにはそれはただの楔形の集合体にしか見えなかった。
 しかしリシャールはどうやら違うようで、柔らかい土の上に書かれたことも相俟って読みにくい文字をどうにか読解しようとその黒の双眸を細めた。
「…アク…シ…エ…?」
 一文字一文字区切るようにしながらも何とか解読したリシャールに、アーサーは満足そうに一つ頷いた。
「そうです。アクシエ――シュリナダル神話に登場する、飛翔の女神の名です」
「シュリナダル神話…あぁ、確か、ダナ地方の一部に伝わる創世記の神話だったと、記憶していますが…」
 また聞き慣れない単語が出てきて、アーロンの頭は爆発寸前の混乱状態なのだが、リシャールは興味深そうに説明者と議論を深めていく。
「ええ。既にシュリナダル神話を継承する民族は少なくなりましたが、ダナ地方の一部にしか伝わらないその伝承に登場する神の名が魔法発動時の詠唱に多く用いられている事から、魔術はダナ地方が発祥の地ではないかというのが専門家の間での通説ですね」
 説明が一段落すれば、アーサーは地面に描いた魔法陣を掌で消してしまう。
「もっとも…こうした一定の法則を導き出し、理論的構造が見出されたのはほんの二百年程前の事で、まだ解明できていない部分も多いですが。魔法を自在に操る方にとっては、それは理屈ではなく感覚的なものらしいですけどね」
 同意を求めるかのようにアーサーの爬虫類の瞳がザイへと向けられれば、まだその姿に慣れないのか一瞬視線が交わっただけで真紅の双眸は逸らされてしまう。

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