黄昏時の神風

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「君は言ったね。この空を越える為の翼が自分にはないのだと。でもね、空を飛べない代わりに、君は大地を歩くことが出来る。空に憧れを抱いて、生きていくことが出来る。それは、とても素晴らしい事だよ。当たり前過ぎて、皆忘れてしまっているけれども。とてもとても、素晴らしい事なんだ」
 彼の視線が、一面に広がる青い空へと移される。この空を見上げていると、何処までも行けそうな気がした。


 もしもこの背に、鳥と同じ翼があったなら、貴方のところまで飛んでいくのに。


 翼がないから、私は大地を駆けるしかない。貴方の影を追いかけて、ただこの地を歩むしかない。決して手は届かない。決して捕まえることは出来ない。影を踏むことは出来ても、決して貴方に触れることは叶わない。
「…人はね、誰でも翼を持っているんだ。いつかその背に真っ白い翼を広げて、ここではない何処かへ飛び立っていく。愛する人達を残して。大切な人達を悲しませて。それでも、翼を得てしまった人は、大地を駆けることは叶わない。どんなに願っても、どんなに望んでも、空を翔るしかないんだ」
「それは、とても悲しいこと?」
 凪紗の独白に近い問いかけに、彼は軽く目を瞠ってから、どうしてと尋ねた。
「だって、残していかなければならないから。もっともっと一緒にいてあげたかったのに、もうそれが叶わないから。悲しむとわかっていたも、どうすることも…」
 心の中に浮かんだ一つの答えが、凪紗から言葉を奪う。涙で潤んだ瞳で彼を見つめた。
 凪紗の言いたい事がわかったのか、彼は黙って頷いた。
 大切な事に気付いて、思わず顔を覆ってしまう。止まることを知らない涙は頬を伝い、コンクリートの地面に染みを作っていく。
 あぁ、どうして今まで気が付かなかったのだろう。自分のことで手一杯で、こんな大切な事を見落としていた。
 残していかなければならない者もまた、辛いのだ。
 伝えたい想いは届かない。泣かないでと、その涙を拭うことも出来ない。ただ黙って空からみていることしか出来ない自分が、どんなに歯痒いだろう。己の無力さに嫌気がさすだろう。


 その背に翼があることを、どれだけ悔やむだろう。


 嗚咽が洩れた。この二ヶ月の間ずっと心の奥に仕舞い込んだ想いが一気に涙と化して頬を流れていく。
 まるで、悲しみに別れを告げるかのように。
「…大好きだった。優しくて。何かあって私が落ち込んでいる時、いつも欲しい言葉をくれた。いつも傍にいてくれた。そんな拓也が、大好きだった」
 誰が何と言おうと、私にとって大切な、かけがえのない人だった。
「…いつか、翼を広げる時が来る。例えそれを、本人が望んでいなくてもね。だから、無理にこの空を飛ぼうなんて考えないで。その時が来るまで、空に憧れを抱きながらも、翼を広げずに大地を感じて生きていってね」
 地面に落ちる影がいつの間にか伸びていた。東の空は既に青み始めている。もう、夜が近いのだ。
「彼は、君の幸せだけを願ってる。だから君は、生きなきゃ駄目だよ。生きて、幸せになるんだ。新しい道を、勇気を持って歩むんだよ」
 凪紗の手を取り、同意を求めるように彼は首を傾げる。覗き込んでくる漆黒の瞳は、もう哀しみに彩られてはいなかった。
 凪紗は、首肯を返す。それだけしか出来なかった。こんなにも胸が一杯で、声なんか出ない。言葉の代わりに、凪紗は何度も何度も頷いた。
 そんな凪紗を見て、彼は、凪いだ水面のようなその双眸を眩しそうに細めた。
「―もう、大丈夫だね。さあ、じきに陽が暮れる。帰ろう、君の本当の居場所へ」
 握っていた手を離し、自分を見上げてくる凪紗の背を優しく押した。
 背を押された凪紗は、躊躇いながらも出口に向かって歩き出す。彼は動かない。ただ黙って、去り行く凪紗の、何処か毅然とした背中を見守るだけだ。
 凪紗は背後を振り返った。そして、ずっと訊きたかった事を口にする。
「あの…名前…」
 質問の意味がわからなかったのか、彼は問うように首を傾げた。
「名前…。先輩の名前、まだ、聞いてないから…」 
 納得したように頷いて、彼は微笑んだ。
「…皐月さつき羽丘はねおか皐」
 扉が閉まる寸前、橙色に染め上げられた屋上に立つ彼の背中に真っ白い翼が広がるのを、凪紗は確かに見た。


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