第一章〜戒めをその身に刻む者の名は〜【承】
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驚きの感情が周囲に広がる。瞠られた幾対もの視線にはやり無視を決め込んだ彼女は、少し離れた所で事態を見守っていた仁へとその銀の双眸を向けた。
「翁からのご伝言がありましたが、この様子だと既に意味はないようですわね」
「鬼惺から?」
その名が唇から洩れれば、一瞬にしてその顔が緊張を帯びる。
鋭さを増した碧の双眸に一つ頷き、彼女は眉間に刻んだ皴を更に深いものにした。
「一応、伝えておきますわ。空間の乱れが顕著である故に、“神座の森”の入り口を封鎖する、と」
彼女の持ってきた伝言に、碧の双眸を瞼の裏に隠した仁は深い溜め息をついた。
「…遅い」
理不尽と知りながら、思わず呟かずにはいられない。
空間が乱れたのならば、正道を通ってきたはずの彼等がこんな奥深くに足を踏み入れた理由も納得出来る。本来ならば繋がらないはずの二つの空間が常軌を逸する空間の捩れによって結びついてしまったのだ。
「だからといって…」
何も、このタイミングでなくてもいいだろう。しかも、よりにもよって繋がった先が『この場所』でなくてもいいだろうに。
とことん運に見放されていると、哀れみの視線を仲間達に向ける。
「それだけ、急を要するという事ですわ。姫、お気付きでしょうけれど、仇名す妖達が集まり始めていますわ。今回は襲撃を免れたようですけれど、早急に対処しなければいずれ手遅れになりますわよ」
しかしそれも数秒の事で、吐息一つで過去への固執に別れを告げた仁は、澄んだ声音の紡ぎにその表情を一層厳しくした。
「貴方達も、『梅舞』達に感謝なさい。はっきり言って私はああした野蛮な方達は大嫌いですけれど、感謝の心を忘れてはいけませんわ」
銀の双眸をちらりと周囲の『高見』家の者達へと向けて、彼女は暖か味の欠片も感じられない声音で言い放つ。
一方、南華達は何を言われたのか理解出来なかった。
感謝する?仲間の一人に危害を加え、自分達を喰らおうとした妖相手に?
見ようによっては怒りの感情にさえ見える困惑顔の彼等に、しかし白髪を払った彼女はそれ以上の言葉を重ねる事はなかった。再び銀の双眸は仁へと向けられてしまう。
「姫も、あまり彼等の戯言に付き合いませんよう願いたいものですわ。ここに来る途中、雑鬼達に泣きつかれて大変でしたのよ?」
彼女の言葉に、仁は厳しい表情を解いて思わず苦笑を刻んだ。
成る程。それでここまで来るのに時間が掛かったのか。ぶつかり合った殺気に恐れを為した雑鬼達に泣きつかれる彼女の姿を想像し、その苦笑は更に深くなる。それは申し訳ない事をしたと思い、しかし本当の被害者は雑鬼達かもしれないと考え直す。
きっと彼女は、恐怖に泣きつく雑鬼達を問答無用で叩き落してきたに違いないのだから。
「薙杜も薙杜ですわ。傍にいたのでしたら、あんな妖一匹や二匹、噛み切って差し上げればよかったんですわ」
文句の尽きない仲間の言葉に、仁の傍に横たわった薙杜は疲れたようにただ溜め息をつくだけに留めた。これで何かを言おうものなら、その三倍で返ってくる。
「無茶を言う。玲羅、掟は君も知っているはず。許可なく、同類を殺す事は赦されない」
「正当化など、後でいくらでも出来ますことよ」
薙杜の代わりに反論を試みるも、即座の反撃にあう。
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