第一章〜戒めをその身に刻む者の名は〜【承】

9頁
 葉擦れの音が徐々に大きくなり、何かがこちらに近付いてきている事を告げる。その音に反射的に警戒を強めて腰に佩いた剣に手を遣る仲間達をちらりと一瞥し、しかし仁は動かなかった。自然体のまま、気配が近づいてくるのを待つ。
「私(わたくし)を呼びつけるなんて。姫、またお怪我でもなさったんですの?」
 姿を認めるよりも早く、高い声が響き渡る。数秒遅れて木々の間から姿を現したのは、三十歳前後の女性だった。
「お気をつけ下さいと、あれ程申しましたのに。それとも、貴女には理解力というものが備わっていないのかしら?だとしたら、言語理解の再勉強をお薦めいたしますわよ」
 高圧的に文句を吐き出しながら真っ直ぐにこちらに向かって歩いてくる相手に、仁は苦笑を浮かべた。こうまで勢いよく並べ立てられたら、反論の余地など見つからない。
「さあさ。今度は何処を怪我しましたの?早く傷口をお見せなさいな」
 腰に手を当てて仁王立ちした彼女の催促に、仁はやっと口を開くタイミングを得た。
「今回は私ではなく、あっち」
 少し離れた所で警戒を解かずに様子を窺っている仲間達を示した指先を追って、彼女の銀の双眸が動く。南華の傍らに横たわる宵の姿を認め、冷たい輝きを宿した瞳が細められた。
「人間ではありませんか。珍しい事」
 白の長髪を払い、ふんと鼻を鳴らす。不平そうな態度を取るも、彼女は怪我人の許へと歩き出してくれた。
 『高見』家の者達は、近付いてくる彼女に決して警戒を解かない。人間の姿をしているからといって、相手が妖だという事くらい彼等にも判った。
 人語を理解し操るという事は、自分達と同等の知性を持つ妖だという事だ。しかし、だからと言ってこちらの言葉が伝わるという確証はない。何やら仁と親しそうに話してはいたが、それすらも今の彼等にとって安全である保障には成り得なかった。
 自分達をこの場に縛り付けた結界の形成者。危害を加えた妖達の『姫』が仁を指すのならば、敵である可能性すらあるのだから。
 気の早い一人が剣を鞘から抜く音が静かな空間を乱す。
 鋭い切っ先が向けられるも、彼女の歩む速度に変化はなかった。敵意を向けてくる彼等を完全に無視し、立ち止まる。宵を庇うような形で膝を折っている南華に、凍えた銀の双眸が向けられた。
「お退きなさいな」
 声を荒げた訳でもない。それでも、鼓膜に響くその声には逆らいがたい威圧感が込められていた。思わず従ってしまいそうになる身体を叱咤し、南華は無言で首を横に振る。
「別によろしいんですのよ?私はただ、姫の命令に従っているまで。人間の一人や二人死のうと、本当はどうでもいいんですもの」
 不機嫌そうに眉間に皴を寄せ、彼女は冷たく言い放つ。その言に嘘はなく、これ以上こちらが拒むようならば相手は何の躊躇いも見せずに踵を返すことだろう。
 ちらりと、岩の上に腰掛けた仁を南華は見遣る。
 彼女は、ここが“神座の森”の深淵だと言った。ならば、自分達には自力でこの森から出る術はない。仮に仁の道案内があったとしても、都まで辿り着くにはどんなに急いだとしてもそれなりの時間を必要としてしまう。その間、命に係わりはないとはいえ何の処置もなく傷口を放っておけば、細菌感染を引き起こして最悪の場合死に至る可能性とてあるのだ。
 南華が結論を出すのは早かった。膝を折ったまま数歩後ろに下がり、目の前に立つ彼女に場所を譲る。
 心外そうに微かに銀の双眸が瞠られるも、何も言わずに彼女は雪の上に両膝をつく。そして、仰向けで気を失っている宵の、出血の止まらない右脇腹の傷口へと色白の右手を翳した。微かな燐光が洩れ、温かな風が周囲を廻る。彼女の右手から漏れ出した燐光は傷口を塞ぎ、輝きと風の流れが失われれば彼の傷は綺麗に治っていた。

【次へ】/【前へ】