第一章〜戒めをその身に刻む者の名は〜【承】

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 ふっと吐息をつき、組んでいた腕を解く。軽く口笛を吹いた後、少し離れた所に横たわっている宵へと駆け寄った。白を染める赤に眉間に皴を刻むも、手を当てた首筋から伝わる力強い胎動に命の危険はないと判断する。
「…遣り過ぎ」
 苦味を含んだ笑みを口端に浮かべ、立ち上がる。
命を取られるよりはましだろうよ
「秤に掛ける方が間違ってる。他にも遣り方があるだろうに」
そこまで優しくはない
 にべもなく言い放つ薙杜に、それ以上言葉を重ねる事はせずに軽く肩を竦めるに留めた。
 ここは妖の世界。“神座の森”の深淵へと足を踏み入れた人間を問答無用で襲わなかっただけでも感謝しなければならないのかもしれなかった。
「仁…」
 躊躇いがちな呼びかけに、初めてその碧の双眸が結界内に囚われている『高見』家の面々へと向けられる。しかしその視線の交錯は数秒で終了し、『賓族』特有の色を宿したその瞳は彼等の足元に落とされた。
一度術を解かねばならないだろうな
 視線を落としたまま沈思する彼女の思考を読んだかのように背後から言葉が掛けられる。
「…やっぱり?」
 答えをわかっていながら尚も足掻こうとする仁に、薙杜は無情にも首肯を返す。
 盛大な溜め息をついた仁は、幾つもの不審そうな視線を黙殺して無造作に雪の地面を払った。
 舞い上がった雪が燐光を放っていた地面の円の一部を覆い隠せば、瞬時に光が消え失せる。刻まれていた星の形の模様も掻き消え、あっさりと結界は解かれてしまった。
「結構辛いんだけどね、結び直すのは」
 誰にともなく呟いて、仁は木々と円空間の境目辺りにある岩の一つに腰掛ける。岩に乗せた片足の膝に頬杖をつく格好で、自由を取り戻して怪我を負ったまま放置されている宵へと駆け寄る仲間達を眺め遣った。
「早く、家に連れて帰らないと…ッ」
「無理だよ」
 宵を背負おうとした南華に、無情な一言が突き刺さる。
 陽族特有の紫水晶の瞳が、睨み付けるように仁を射抜いてきた。
「…どういう意味だ、嬢ちゃん」
「言葉通り」
 威圧感の含まれた問いかけに、しかし仁は平然と応える。
「ここは“神座の森”の深淵。君達だけでは都まで辿り着けない」
 その一言に、息を呑む音が聞こえてくる。
 困惑と焦燥が混ざり合った表情をする『高見』家の面々に気付かれないように小さく溜め息をついた仁の碧の双眸が、すっと動かされた。


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