第一章〜戒めをその身に刻む者の名は〜【承】

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 葉擦れの音を伴って、一つの人影が木々の狭間から姿を現す。冴えた輝きを宿す碧の双眸が、その場にいる妖を臆する事無く見据えた。
姫。こやつ等は道を見失いし者
なれば、我等の掟で葬り去らねば
手遅れに、なる前に
 まるで彼女の言葉が世界を断ち切る研ぎ澄まされた刃であったかのように、つい先程までこの場を満たしていた殺気が消え失せている。代わりに世界を取り巻くのは、嫌悪の感情だった。
「手遅れにはならない。私が、連れて帰る」
 純白の雪に足跡を刻みながら薙杜の傍らまで歩いてきた彼女は、相対する妖に言葉を投げかける。
姫は甘い
事実、既にその徴候は見え始めている
 引く気配のない妖の指摘に、ちらりと碧の双眸が自身の背後に向けられる。その先で地面に膝をついて喘いでいる紫溂の姿を認めれば、その瞳をすっと細めた。
慈悲を与え、新たなる亡者を生むか
無慈悲に徹し、今ここで災いの種を摘み取るか
 お前はどちらを選ぶと、相対する妖が二択を提示してくる。
 己の答えを待つ妖達をゆっくりとその碧の双眸が滑る。最後に自らの傍らに在る薙杜を見上げ、瞼が一度閉じられる。
姫が迷うのならば、我等が
例え姫であろうと、我等の邪魔は赦さぬ
姫ともども、彼奴等を刻んでやる
 返らない応えに痺れを切らした妖の唸り声が空気を震わし、聞く者に恐怖を与える。
 耳に届いた妖の警告にゆっくりと瞼を上げた彼女は、腕を組み、背筋の凍るような微笑をその唇に刻んだ。
「――――試してみるか?」
 一瞬にして解放された純粋な殺気。その苛烈さに、蚊帳の外の南華達までもが自身の背中を氷解が滑り落ちる感覚を味わった。
『…言に、偽りはないな?
 無言の対峙は、やがて妖のその一言で終わりを告げる。
「日没までには、必ず。もし叶わなければ、その後は君達の掟に則ればいい」
 殺気を掻き消し、今度は即座に応える。
 真意を測るかのように再び数秒間視線が交わるも、彼等は大人しく踵を返して木々の中へと姿を消していく。
 結界を取り巻いていた妖全ての気配が消え失せると同時に、空気が軽くなった。妖気は薄れ、気に当てられて膝をついていた紫溂の呼吸も徐々に落ち着いてくる。
「…狸」
 妖の去っていった方向を見据えていた彼女の唇から洩れた一言に、同じように彼方を眺め遣っていた薙杜の金の双眸が動いた。
姫も、奴等の事は言えまいよ
 薙杜の言葉に心外そうな顔をして彼を見上げるも、すぐにその碧の瞳は自分達を取り囲む森の影へと移される。
「気配は消えた?」
心配無用。既に、この近辺からは離れた
 再び彼方に投じられたその金の双眸にはもしかしたらその姿が映っているのかもしれないが、人間の身である自分には確認する術がなかった。それでも、彼が心配ないと言うのだから間違いない。


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