第一章〜戒めをその身に刻む者の名は〜【起】
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コンコン、と二度扉をノックしても、中からの反応はなかった。めげずに二度三度と同じ行為を繰り返してみたが、やはり結果は同じだった。
少し考えてから、玻綾はドアノブを握る。右に回し、中が覗ける程度に扉を内側に開けた。
来訪者を出迎えるのは、背の高い本棚だ。L字型に配置された本棚は来た者を威圧し、恐らく普通の人間ならばこの場で回れ右をして立ち去っていることだろう。それだけ、この部屋に満ちる空気は重い。
「仁?」
声を掛けながら、玻綾は部屋の中へと入る。一段高くなっている畳に上り、本棚の影に隠れている部屋の中心へと顔を覗かせた。
「仁、寝ているの?」
畳の上には乱雑に衣服が脱ぎ捨てられ、壁際のベッドの上にはこの部屋の主が横になっていた。うつ伏せに寝ていて、ほぼ頭まで毛布を被った状態ではこちらからその表情を窺い知ることは出来なかった。
なるべく足音を立てないよう、玻綾はゆっくりとベッドに近付いていく。枕元に立ち、毛布と枕に埋もれた顔色を確認しようと玻綾が手を伸ばした時だった。
「・・・・・・ッ!」
唐突に、冷たい手が手首を掴んだ。その力は思いのほか強く、玻綾は驚きに息を詰める。
寝ていると思っていた仁が動いた。まだ半ば枕に顔を沈めながら、碧の隻眼が不機嫌そうな輝きを宿して玻綾を見上げてくる。
「…何?」
低い声で短く問われ、玻綾は咄嗟に反応に困る。
「え…?えっと…大丈夫?」
数秒陰族特有の紺色の双眸が言葉を探すように天井を彷徨い、結局出てきたのはそんなありきたりな問いかけだった。
碧の碧眼がすっと細められる。見えている部分が少ないから何ともいえないが、どうやら相手は不審がっているようだ。
「何となく…だけど。顔色が悪そうに見えたから」
ここに来た理由を述べるも、相手からの応えはなかった。握っていた手が離れ、瞬きが一度。そのまま首を逆方向へ向けてしまったので眠りに入ってしまったのかと玻綾は思ったが、仁は緩慢な動作で上体を起こした。
伏せ気味の頬を銀髪がさらりと撫でる。毛布の滑り落ちた肩から覗いたのは、鮮血の滲んだ包帯だった。
「仁、貴女…その傷…」
言葉が続かない。出血の続くその傷が、例え包帯が巻かれていて傷口が見えなかったとしてもかなり深いものであることは少し医術の知識のある者が見ればすぐに判るものだ。
一度己の右肩に視線を落とした仁が、改めてベッドの傍らに立つ玻綾を見上げる。その顔は玻綾が思った通り血の気が失せて青白く、碧の双眸は些か不機嫌そうに見受けられた。
「迷惑を掛けたことは謝る。だけど…今は眠らせて欲しい」
銀髪をかき上げる、そんな単純な動作すら随分と億劫そうに見える仁の願いに、玻綾は喉まで出かかった言葉を呑み込みざるを得なかった。
「全部終わったら、ちゃんと話すから。南華にも、そう言っておいて」
一方的に会話を終了し、怪我をしている右肩を庇うように再びベッドに横になる仁。
これ以上の干渉を拒む仁に、ベッドの傍らに立ち尽くす玻綾はどうしたものかと眉間に皴を寄せる。
相手はこれ以上の干渉を望んでいない。だが、だからと言ってあの傷を放っておいていいものだろうか。ここは無理やりにでも、医務室に連れて行った方がいいのではないか。
等と色々と思考を巡らすも、結局玻綾が折れた。溜め息をつき、体を折り曲げて相手の顔を覗き込む。
「仁。大丈夫なのね?」
最終確認をすれば、微かではあるけれども無言の首肯が返される。くの字に曲げていた体を起こした玻綾は、再度盛大な溜め息をついてから部屋を後にした。後ろ手で扉を閉め、心配げにその紺の双眸が背後を見遣る。しかしそれも数秒で、軽く頭を振ってから玻綾は階下へと下りていき、足音が響いていた廊下は、やがていつもの静寂を取り戻した。
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