第一章〜戒めをその身に刻む者の名は〜【起】
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生きろ。
握っていた手から力が抜けた。鮮血で染められた己の手から友の右手が滑り落ちる。降り出した雨が、未だ残る友の体温を奪っていく。
頬を伝う涙は冷たい如月の雨に紛れて視界を埋め尽くすのに、抱きかかえた友の死顔は、はっきりと見る事ができた。月の光を溶かし込んだかのような銀髪は、所々返り血で赤く染まっているが、それも雨が洗い流していく。
ここは、゛神座の地"。四方を深い森に囲まれた、神聖なる場所にして、人々が畏怖する一族が住む異郷の地。
深い雪に覆われた地面に力なく座り、己の腕の中で息を引き取った友を、その澄んだ深紅と碧(みどり)の瞳で見つめる。
「…紫苑」
唯一呼ぶ事を許されたその名を口にしても返答はない。返される沈黙が、認めたくない現実を真実へと変えようとしていた。
燎、と。彼だけが自分をそう呼んだ。しかし、もう二度とその名を彼の口から聞く事は叶わないのだ。
今も耳に、彼の声が木霊するのに。
今もまだ、瞳を閉じれば笑いかけてくる友の姿がそこにあるのに。
何処を捜しても、もう君はいないのだから。
「…紫苑ッ!」
冷たくなっていく友の体を力強く抱き締める。
陽が沈み、夜が来て、また陽は昇り朝が来る。それは、永遠へと続く時の営みだ。
時の営みと同じように、今までの生活がずっと続くと思っていた。友と笑い、時には喧嘩をして。それは、当たり前の光景であるはずだった。不変に続く日常であるはずだった。多くの束縛を受けながら、それでも私達は自由だった。
見れるはずだった笑顔。聴けるはずだった笑い声。叶うはずだった約束。
「馬鹿か、君は!交わした約束を違えるのか!」
―いつか、世界を見に行こう
そう約束し、その証として名を交換したのはいつの事だったか。それは、最初で最後の約束。叶うと信じた、幼き日の記憶。
それを。
「生きなければ、叶うものも叶わない。願うのも、望むのも。生きているからできる事でしょう?それなのに、今死んでしまってどうする!?」
―燎。生きろよ。俺達は、いつも傍にいるからさぁ。
なんて、身勝手な言葉。なんて、残酷な言葉。
己の未来よりも、友の今の為に、生を託して息絶えた。
「…友の命を犠牲にしてまで、生きる価値が私にあるというのか?守るべき人を失って、帰るべき場所のない私に、これからどうやって生きていけばいいという!」
生きる事など、望んではいなかった。自分を守る為に、大切な仲間が死んでいく。大切な人達の命を代償にする生など、いらない。
守りたかったのは。生きて欲しいと、願ったのは。
自分も、同じなのに。
それなのに、共に生きた同胞はもういない。守られて、自分独りだけが生き残った。過去も、その先にあった未来も、想いも、全てここに残して。
友は皆、自分の前で散っていった。
研ぎ澄まされた聴覚が微かな音を捉える。それは、雪を踏みしめる、無数の妖の足音。肌を刺すその妖気に、無意識のうちに体が強張る。
確実に、その音は近付いてくる。死を運ぶ死神の気配。
伏せていた顔を上げる。視界に入ったのは、歓喜に爛々と輝く冥(くら)い双眸。
妖が跳んだ。鋭い鍵爪が、命を狩ろうと振り下ろされる。
「――――――ッ!」
ΨΨΨΨ
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