未だ名もなき
7/10ページ
盛大な溜め息をつき、ザイは天井を仰ぐ。そして、未だ抱きついたままのリシャールを、半ば強引に引き剥がした。
「いつまで抱きついてるつもりだ、お前は。いい加減離れろ」
「す、すみません。この感動をどうしてもユヒト殿にわかっていただきたくて、つい…」
目尻に浮かんだ涙を拭いながらのリシャールの言葉に、再び吐息をつきながらザイは自身の真紅の髪をかき上げた。
「いちいち謝るな。それに、ザイでいいってさっき言っただろ」
ひらひらと軽く手を振り、相手に背を向けたザイは一足先に長老の部屋を後にする。玄関を抜けて、目を射た陽の光にその真紅の双眸を細めた。
手を翳して目を庇い、先程リシャールに叩かれた頬を押さえる。
何故、叩かれたのか。
その意味がザイにはよく分からなかったが、彼が勇者に選ばれた事に対して誇りを持っている事は理解出来た。
ザイは未だに納得していなかったが、仕方がない。旅に出ざるを得ないこの状況だ。取り敢えず、隣町にでも行ってみるか。
流れでここまで来てしまったが、その流れに逆らう気力を、生憎ザイは持ち合わせていなかった。
「ま、何とかなるさ」
元来の面倒くさがり屋の性格が覗き、既にその心はその先に待つ未知の世界に馳せられている。
どんな未知なる物に出会い、どんな人間達と言葉を交わすのか。
『勇者』等という職業ははた迷惑以外の何物でもないが、ここは十八歳。未知なる物への好奇心ぐらい、ザイにだってある。
背後から響いた扉の開く音に、ザイは振り返る。
「ユヒ…ごほん。――ザイ殿。その格好で旅に出られるおつもりですか?」
律儀に言い直したリシャールに微苦笑を浮かべ、問いかけられたザイは改めて己の服装を認識する。
そういえば、寝ている所を叩き起こされて半ば引きずられる形で長老の許に辿り着いたものだから、普段の布の服にズボンという格好だった。草履は履いているものの裸足で、確かにこれは旅に出るといった風な出で立ちでは決してない。
「あぁ、悪い。すぐ支度してくるから、村の入り口で待っていてくれ」
「あ!ユヒト殿!」
背を向けて走りかけたザイの背を、リシャールを呼び止めた。訝しげに振り返った彼に、手に持っていた袋を手渡す。
「これからご迷惑をおかけする事もあるかと思いますので、せめてこれくらいは」
「別に、そんな事」
気にする必要はないと首を振るザイに、しかしリシャールは引かなかった。
「いいえ。礼儀を重んじるのは私達ビアンキ家のしきたり。どうぞ、お受け取り下さい」
引く気配のないリシャールの姿に、苦笑を浮かべながらもザイは袋を受け取った。礼を言い、今度こそ彼はリシャールの視界から消える。
【次へ】/【前へ】