未だ名もなき
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「あぁ、やっぱりここにいたか」
不謹慎ですよと注意しようとしたリシャールよりも一瞬早く、よく通る声が教会内に木霊する。
「ったく。入り口で待ってろって言ったのに。いないから、捜しに来てみれば…」
リシャールの許まで歩いてきたザイは、呆れたような笑みを浮かべて腰に手を遣る。そして、その真紅の双眸が斜め下からリシャールを見上げてきた。
「神様への報告って訳か。あんた、律儀だよな」
リシャールから女神ヴェーラの像へと視線を動かしたザイの格好は、先程とは打って変わって清潔感がある。
リシャールから送られた黒い絹のベストに、同色のズボン。肌触りのよい白色の木綿のワイシャツは肘まで捲り上げられていて、腰には一本の長剣が吊るされていた。櫛を入れられた真紅の長髪がその頬をさらりと撫でれば、そこら辺の娘は一瞬にして心を奪われそうである。
これ程までに変わるものかと、リシャールは感嘆の溜め息を洩らした。先程長老の前で惰眠を貪っていた彼と同一人物なのかと、思わず疑ってしまう。
「ん?俺の顔に何か付いてるか?」
イザの問いかけに、リシャールは彼の顔を凝視している自分に初めて気付いた。はっと我に返り、慌てて頭を横に振る。
「い…いえ!決してそんな事は…!」
狼狽するリシャールの理由を知らないザイは、変わった奴だなと声を立てて笑う。
「ま、流れで一緒に旅することになったが、改めて」
笑いを収めたザイの差し出された手に、リシャールは首を傾げる。
「これからよろしくな、リシャール」
微笑みと共に送られた言葉に、リシャールは感激のあまりその瞳からぽろりと涙を零し…。
「ユ…ユヒト殿ぉおおぉぉおッ」
大きく両手を広げてその胸にザイを抱こうとして、失敗した。
「うわっと!リシャール、お前!その、感激すると抱きつく癖直せ!」
リシャールの感激表現から逃れたザイは、滂沱と涙している彼に指を突きつけて怒鳴りつけた。
せっかくの感動の場面は何処へやら。
「ユヒト殿ぉぉ!」
「まだ言うか!ザイでいいって、何回言えば学習する!」
暑苦しい相手に先程のお返し、ではないだろうが拳をお見舞いして、ザイは肩で息をする。ばたりと倒れ伏した相手に、鬱陶しげに自らの髪を払った彼は、疲れた様子で深い溜め息をついた。
よろしくと言ってしまったが、どうしても不安が拭えないザイであった。白目を剥いている相手に一瞥をくれ、助けを求めるように背後の女神像を顧みる。
が、光り輝く紅玉の瞳でこちらを見つめてくる女神は、決してその硬い口を開いてはくれなかった。
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