太陽と月の奏でる場所で

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 主とラキの間に会話はない。しかしその場に満ちる沈黙は、決して息苦しいものではなかった。
 コチ、コチ。時を刻む無機質な時計針の音が響き渡る。そんな静謐な室内に、突如としてその叫びは届いた。
「主ッ!」
 その見事な緋色の翼を羽ばたかせ、ラウが少し開いた窓の隙間から室内に飛び込んできた。
 悲鳴に近いその呼びかけに、彼はおもむろに読んでいた本から顔を上げる。
「主!お願いがッ!」
 机の上に降り立ち、ラウは正面から主を見上げた。
「門を閉じてもらえませぬか!?ほんの少しでよいのですッ。魂を、現世へ!」
 ラウの願いに、主の深緑の双眸がすっと細められる。
「大切な人が…ッ。彼女の大切な方が、黄泉へと向かわれる!」
 一番末の孫の魂が黄泉へと向かう。彼女はまだ十五だ。やりたい事も、見たいものも、きっと沢山ある。
 限りなく存在していたはずの『未来あす』が、奪われてしまう。
「――――ラウ」
 静か過ぎる、感情を排した平淡な声音がラウを現実へと引き戻した。
 ラウの視線の先に、冴え冴えとした、氷塊の如き冷めた深緑の双眸があった。
「同じ事を二度も言わせるな」
 耳朶を叩いたその言葉に、ラウはまるで雷にでも打たれたかのように硬直した。
 再び本へと落とされた視線。その深緑の双眸が、深い輝きを宿して煌く。
 変えられないと、言うのか。運命は、絶対に――――…いや。
「しかし…しかしッ。主、彼の方のお名前はなかったはずです!」
 人間の寿命が記された鬼籍帳にその名前が刻まれるのは、もっとずっと先の事であったはずだ。運命などではない。こんな処で、その命が奪われていいはずがない。
 必死に訴えるラウに、しかし主の反応は冷たかった。
「時は常に巡る。不変なものなどありはしない」
 時を刻み続ける限り変らぬものなど何一つなく。人の命もまた然り。その命の灯は、ほんの些細な事で消えてしまうのだ。
 何者にも、神にすら、先が読めない。それ故に、『運命』と呼ぶのだ。
「鬼籍帳に名が記されたならば、それを変える事は赦されない」
 主の言葉は、ラウの心にやいばのように突き刺さった。緋色の翼を閉じ、こうべを垂れる。
 室内は再び沈黙に包まれる。息の詰まるような、重圧を感じさせる沈黙。
 ラウは瞳を閉じる。その脳裏に蘇る、愛しい人の面影。
―貴方に逢えて、よかったわ。
 鼓膜に響く、優しい声音。
 彼女の愛した人が冥府へ向かう。そうと分かっていても何も出来ない自分の無力さに彼女は泣くだろう。あの人は、誰よりも優しい人だったから。
 もう一度、自分の胸に問いかけてみる。答えなど、最初から決まっていた。
 瞼を開け、ラウは頭を上げる。視界に入る主の無表情な横顔を見つめ、呼びかけた。
「―――主。代償を、払いましょう」
「兄さんッ!」
 静かなラウの告白に、今まで黙って二人の様子を見守っていたラキが非難の声を上げた。
 顔を上げた主が何か言おうとしたラキを視線で制する。恐れる事無く見上げてくるラウの赤い瞳を、主は真っ向から受け止めた。
「何を、代償とする?」
 心の奥底を見透かすような深緑の双眸と対峙し、ラウは一呼吸おいてから、応えた。
「我が、命を―――」


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