太陽と月の奏でる場所で

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 最初の出会いは覚えていない。多分、大した事ではなかったのだろう。
 パイプ椅子に座り、開け放たれた窓から吹き込んでくる春の穏やかな風につい欠伸が出てしまう。その瞬間、女性の咎める声が飛んだ。
「動かないで。ちゃんと描けないじゃない」
 涙の浮かんだ目じりを拭いながら声のした方へ視線を向けると、言葉とは裏腹に眼鏡をかけた彼女が穏やかに笑っていた。
「あぁ…すまない」
 素直に謝り、腕を組み直す。
「ふふ。゛春眠暁を覚えず"と言うものね。特に今日のように穏やかな日は眠くなるわ」
 鉛筆を動かしながら彼女はころころと笑う。
 スケッチに夢中になる彼女の姿が愛おしくて、椅子から立ち上がってその頬に触れられないことを残念に思う。
「ねぇ。今回の検査結果が好かったら、一日だけ外出してもいいよって言われたの。もしそれが叶ったら、私、貴方と出掛けたい」
 スケッチをする手を止め、彼女が真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
「何を言っているんだ。俺などではなく、家族で過ごすといい」
 そう言うと、彼女は少し拗ねたような顔をした。
「家族となら毎日会えるもの。だけど、貴方とは週に一度しか会えない。だから、私は貴方と行きたいの」
 強情に言い張る彼女に溜め息をつき、パイプ椅子から立ち上がって白いベッドに腰を下ろした。そして、彼女の髪を優しく撫でる。
「わかった。一緒に出かけよう」
「本当?」
 ぱっと顔を輝かせる彼女に頷いてみせる。
「じゃあ、約束ね」
 差し出された小指に自分のそれを絡ませる。
 幼子がするように約束の言葉を歌い、彼女は嬉しそうに笑った。
 そんな彼女の細い体を抱き締める。触れた皮膚から伝わってくる鼓動が、彼女が今ちゃんとここで生きている事を伝えてくれる。
 一目見ただけで病気だと分かる程に痩せたその体。先天性の心臓病をかかえた彼女は、生まれてからずっと病院で過ごしている。だから、彼女が知っているのは、窓から見える外界だけ。
「何処に行きたいか、決めておくね」
 行ってみたい所が沢山あるの、と暖かい腕の中で彼女は困ったように笑った。
「お前が望む所ならば、何処へでも連れて行くよ」
 窓の外が朱色に染まる。黄昏時。優しい優しい、茜色の空。




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