太陽と月の奏でる場所で
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可憐な花びらは完全に散り、新緑の葉が茂り始める頃。
暖かな日差しの降り注ぐ病院の中庭に、彼女の姿はあった。まだ車椅子だったが、付き添いの看護師と何やら話しているその様子はとても楽しげだ。
奇跡とした言いようがないと、現実主義者である医師がそう告げた。春先の危篤状況から一変、彼女の容態は確実に快方へ向かっているという。
幸せそうに笑う彼女の姿を少し離れた木陰から見つめていた彼は、ほっと息をついた。そして、ほんの少し心の奥がズキリと痛む。
「だから忠告したじゃないか。顔を見ても、君が傷付くだけだと」
上から降ってきた少し高めの声に視線を向ければ、太い幹に腰を下ろした少年の深緑の双眸と目が合った。
「…それでも。もう一度だけ、顔を見ておきたかったんだ」
元気になったその姿を。外の世界を知って笑う、その笑顔を。もう一度だけ。これから先、もう逢うことはないだろうから。
愛しいあの人を奪わないで欲しいと。何を犠牲にしても構わない。あの笑顔が、再び戻るのならば。その願いを叶える為に。
あの日。彼女が危篤状態に陥った雨の日。彼は、死神と契約を交わしたのだ。
―望みを叶えてやろう。ただ、理を曲げるにはそれ相応の代償が必要だ。
何だと訊き返した彼に、少年の姿をした死神は、数秒の間をあけて答えた。
―未来と、記憶。
いずれお前が冥府の川を渡るときに用意されている来世と、彼女の中のお前の記憶。死した後、お前の魂は灼熱地獄へと堕ち、苦しみは連鎖する。それが、理を曲げて彼女を助ける代償だと。
―彼女の命が繋がったとしても、彼女の中には既にお前はいない。それでも…。
共に生きていくことは出来なくても。もう二度と、逢うことがなかったとしても。それでもお前は、理を冒す覚悟があるか――?
「自己保身と自己犠牲。君達はこの矛盾した行為を繰り返す。本当に、人間は不可思議な生き物だね」
中庭で談笑する車椅子の少女に視線を遣り、少年はそう呟く。そして、瞬き一つのうちに姿を消した。
沈みかけた日差しの中で微笑む彼女の姿に、胸の奥が再び痛む。微かに顔を歪めた彼の耳に、本来ならば届かないはずの『声』が届いた。
「知らない人です。だけど…何だか懐かしくて…。あ、そうだ。聞いてください。私、もう子供の名前決めてるんです。まだ相手すらいないんですけど…。その名前はですね―――」
車椅子の上で、お気に入りのスケッチブックを抱えて恥ずかしげに微笑む彼女。
彼は、これ以上ない程目を見開いた。
耳に届いた、彼女が口にした名前。それは、自分と同じもの。
胸の奥が痛む。けれども、その痛みを覆うようにして、暖かい感情が広がっていく。目頭が熱くなり、それでも涙は流れる事無く―――彼は穏やかに微笑んで、踵を返した。
空を染める朱色。黄昏時。優しい優しい、茜色の空。
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