海を越えて

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「ぎゃああああああッ!」
 隣の部屋から響いてきた、まるでこの世の終わりと対面したような壮絶な悲鳴に、朝の優雅なコーヒータイムを満喫していたリシャールは文字通り飛び上がった。持っていたカップを叩き付けるようにソーサーに戻し、立ち上がる。
「アーロンさん!?どうしました!?」
 広い部屋を横切り、大慌てでリシャールは悲鳴の響いてきたドアを開け放った。その視界に、鏡に映された自身を見つめながら嘆いているアーロンの背中が映る。
「アーロンさん?何か、ご病気でも…」
「リシャール!」
 反応のない彼に近付きながら再度声を掛けたリシャールは、傍らに立ったと同時に自らの腕にしがみ付いてきたアーロンに流石に驚きに目を瞠った。
「ザイは何処に行った!?」
「ザイ…ですか?彼なら、図書館に行ってくると…」
 鬼気迫らんばかりの問いに困惑気味に答えるリシャールの腕を振り解き、再び鏡面に映る自身を見つめたアーロンは肩を震わせる。
 鏡の中のアーロンの顔は、落書きによって原型を留めていなかった。両目は瞼に新たな目を描かれ、頬には大量のそばかす、鼻の下には髭が付け足されており、極め付けに、額には大きく『馬鹿』の二文字。
 明らかに、夜の寝室に忍び込んで描かれたものだ。そして、こんな事をする犯人は一人しかいない。
「ザイの野郎…ッ」
 怒りに燃えるアーロンの変わり果てた顔を見て、リシャールは頭痛を覚えて目元を覆った。
「ザイ…」
 ここまで子供っぽい行動を取られると、怒る気力さえ失せるというもの。
「しかもこれ、ガジ油で描かれてるし!」
 南方の暖かい地方で育つガジの木の樹脂から作られるガジ油は、世界一落ち辛いインクで有名だった。
「ザイ!アイツ、ぜってー許さねぇ!」
 爽やかな朝の空気を奮わせたアーロンの怒声に、リシャールはただ、深い溜め息をつくしか術がなかった。

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